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お昼時に行ったので
『お腹が空いているだろう?』と
おにぎりをいただいた
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テント村の前の基地建設予定の砂浜に行った
この有刺鉄線の向うに基地をつくるそうだ
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この砂浜でテント村の方に
一時間ほど今までの経過や辺野古に基地ができると
どうなるのかを聞かせてもらった
改めて基地は要らないと思った
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有刺鉄線には訪れた人たちのメッセージが
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カミソリの刃で出来ている有刺鉄線
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珊瑚とジュゴンと命を守る為に
座り込みをしている
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辺野古テント村HP
『辺野古を楽しくする会』

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日本最南端の道の駅
この道の駅『かでな』からは米軍嘉手納基地の飛行場が一望できる
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国道58号線に続く嘉手納基地
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嘉手納飛行場
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写真の階段を上った所が
『安保の丘』
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嘉手納基地
道の駅かでなの展望台からの
爆音を上げて飛び去っていく戦闘機の動画です。
僕はここに30分くらいしか居ませんでしたが
引っ切り無しに米軍機が飛んでいきました。
道の駅かでな
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沖縄戦は、1941年12月7日の日米開戦に始まる一連の戦争うちの一つで、
一般には1945年3月〜7月頃まで沖縄本土が戦場となった戦争。
およそ20万人の戦没者を出し、
うち県民の犠牲者が15万人にものぼると言われ、
悲惨な戦争として歴史の1ページに刻まれている。
沖縄戦の特徴は、太平洋戦争中の日本領土内で唯一の地上戦だったことと、
旧日本軍が沖縄戦を本土決戦の時間稼ぎ、消耗戦と考え、住民を戦闘に巻き込んだことにある。
日本軍は、住民に集団自決をさせたり、地下壕を追い出し「鉄の暴風雨」と言われた艦砲射撃にさらしたり、
スパイの疑いをかけて殺害したり、食料をうばったりした。
さらにひめゆり部隊、健児隊など多くの少年少女が軍に協力し、多数の若い命を投げ出した。
6月23日は沖縄守備隊司令官牛島中将が自決し組織的抵抗を終えた日となっている。
沖縄県は条例でその日を「慰霊の日」と定め、公休日としている。
しかし、自決の前に出された「石や木を持って最後の一人になるまで戦え」と言う命令のため、
その後も壕にこもったり、8月まで住民虐殺が続いたりして、
この日が沖縄戦終結と言えるかどうかについては疑問が出されているのが現状である。
沖縄戦の経過
| 1944年 10月10日 |
沖縄各地に空襲。那覇市街地の90%焼失 |
| 1945年 3月23日 |
アメリカ艦隊、沖縄本島に攻撃を開始 |
| 4月 1日 |
アメリカ軍、北谷、読谷地帯に無血上陸 |
| 4月 8日 |
嘉数高地を中心に中部戦線開始 |
| 4月24日 |
嘉数高地、陥落 |
| 5月22日 |
沖縄守備軍司令部、喜屋武半島に撤退決定 |
| 5月25日 |
南風原陸軍病院、南部に撤退命令 |
| 5月27日 |
沖縄守備軍司令部、喜屋武半島に撤退 |
| 5月31日 |
首里陥落 |
| 6月18日 |
バックナーアメリカ軍司令官、戦死 |
| 6月23日 |
牛島沖縄守備軍司令官、摩文仁で自決・・・日本軍の組織的な戦闘終結
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| 8月15日 |
日本、無条件降伏・・・太平洋戦争終結 |
| 9月 7日 |
残存守備軍降伏・・・沖縄戦完全終結 |
沖縄は米軍による占領時代から苦難の連続であり、またそれは現在でも続いている。
沖縄に観光目的で行く人の大半は、綺麗な海や風土に目を見張ることだろう。
もちろん、それだけでも一向に構わないのだが、
誰もが素晴らしいと感じる沖縄の歴史の真実を知るのもまた、
沖縄という土地を知るうえで必要な義務であると思う。
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4月1日
アメリカ軍は、沖縄島中部の読谷から北谷にかけての海岸に上陸。
だが、激しい抵抗があるものと思われた旧日本軍からの反撃はみられず
あっさりと上陸を許してしまうのであった。

4月3日
米軍上陸に恐怖した読谷村波平地区の住民85名が
ガマ(自然の鍾乳洞)の中で集団自決してしまった。
いわゆるチビチリガマの集団自決であるが
ガマの中で火を放ち、あるいは毒薬や刃物をもちいて集団自決を強いられた。
「米軍に捕虜になれば辱めを受け、殺される」「日本人として潔く死ね」という
皇民化教育と軍隊による強制による悲劇である。
読谷村戦跡巡りHP
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北谷にある『米軍上陸の地碑』
砂辺馬場公園内にある
嘉手納基地から飛び立った飛行機が
頭の真上を飛んでいく
公園内で騒音の調査をしていた
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沖縄戦で、1945年4月8日から16日間の大激戦の場となった嘉数高台。
上陸した米軍が北方から迫るのに対する旧日本軍防衛ラインの中心。
米軍は最大規模の砲撃を加え、日本軍は夜中の肉弾攻撃で反撃した。
手榴弾を抱えた戦車への特攻や、日本刀での切り込みもあった。
4月12日
旧日本軍の反撃を受け多大な損害を生じ
米軍の攻撃は完全に失敗した。
敵は一旦攻撃を中止、部隊の再編し
4月19日
総攻撃を開始。
嘉数高地を守る第62師団は
150メートル以下の起伏台地を活用し
縦深に陣地を構築して迎え撃った。
第1線の3個大隊で敵3個師団を相手に頑強なる抵抗を示し
嘉数地区においては敵の前進を許さなかったのである。
米軍はこの日一日の戦闘で30両中22両の戦車を失う。
だが、その奮闘ぶりも力尽き
4月24日
嘉数高台は陥落。
そして嘉数高台の後ろに控えている前田高地でも
約一週間ほどの激戦が繰り広げられた。
沖縄戦の証言で語られる激戦の模様は
ほとんどが中部戦線のことである。
中部戦線(嘉数高地・前田高地)が沖縄戦での縮図とも云えるのである。
住民は基本的に避難させてもらえず
ある意味で住民を盾に使って戦う。
昼間は艦砲射撃が休むまもなく撃ち響き
地下壕からは一歩も出れない状況が続き
攻撃は夜中に切り込みをかけたという。
文字通りの肉弾戦となり、爆弾を抱えそのまま自爆したり
敵弾の降りしきる中
壕から壕へ弾薬や伝令を運んだり常に死と隣り合わせであった。
しかも
その作業は主に徴兵された住民であったことが実に多かったのである。
ここ嘉数高台から首里に至る中部戦線で
日本軍は約6万4000名が戦死
米軍の戦死傷者も2万6000名に達したという。
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120数段の階段を上ると360度のパノラマの丘だった
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頂上には展望台が
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展望台からは普天間基地が見える
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旧日本軍のトーチカ
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この穴から銃口を出して攻撃していた
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中に入ってみた
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この中で敵が攻めてくるのを待っていたなんて
僕なら耐えられない・・・・
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沖縄の守備を担う陸軍第32軍は
決戦に備え、首里城の地下に、コンクリートで固めた壕を作り
1945年1月、そこへ司令部を移しました。
この壕は、6カ所の入口、延長1キロにも及び、1トン爆弾にも耐えられるという堅牢なものでした。
以来ここで沖縄戦の総指揮を取っていましたが
米軍が迫るにつれ、5月22日に本島最南部の摩文仁に撤退しました。
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旧日本軍首里司令部壕
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3月23日頃から米軍の空襲が本格化すると
看護補助のため多くの女学生が動員された。
戦後、彼女たちは「ひめゆり学徒隊」と呼ばれることになる。
米軍上陸前に、病院は黄金森一帯に掘られていた30余りの壕へと移動。
5月22日
首里城地下におかれた第32軍司令部が摩文仁に撤退し
陸軍病院も南部へ移動することになる。
その際、重症患者には青酸カリが配られ、自決が強要された壕もあった。
「南風原陸軍病院跡」の碑には「重症患者二千余名自決之地」とあるが
犠牲者の数は明らかではない。
戦争の悲惨さを伝える証として文化財に指定され
現在20号壕(第2外科壕群:重症患者が収容されていたところ)は一般公開され
24号壕(第1外科壕群:はじめは「ひめゆり学徒隊」の待機所。その後、病室)は公開に向けて準備を進めているとのこと。
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南風原町民が一人500円の寄付を集めて建てた
『憲法九条の碑』
南風原町民の4割が戦死したそうです
沖縄で最初に平和宣言した町
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ヘルメットと懐中電灯を持っての入壕。
20号ガマのガイドさんは僕の親父と同じ歳の女性だった。
壕から出た後も詳しく色々と教えてくれた。
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この20号は2007年6月から一般公開されたそうです。
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20号ガマのガイドさんの話で
この沖縄戦は15年戦争から考えて欲しいと・・・・
今の日本の政府は何を考えているのか
理解できないと言っていました。
他にも沖縄返還の話など
たくさん教えていただきました。
このガイドさんには僕より2つ下の子供がいるそうです。
次の世代に伝えていかないと・・・と言っていました。
南風原文化センター
パンプレット


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沖縄陸軍病院(南風原陸軍病院)糸数分室として
軍医3名、看護婦3名、衛生兵数名、ひめゆり学徒隊16名が南風原から移動し
負傷兵や病気の兵の治療、看護に当たりました。
照明は撤去されたので、灯りはロウソクや豚油を使用したランプが使われ
洞内は多いときで600〜1000人近い患者が収容されていました。
また、戦闘が激しくなってきて、近隣の住民もこの壕に避難してきており
大変な状況になっていたらしいです。
5月25日に撤退命令が出され
陸軍病院は糸満市伊原の第一外科壕へ移動し
残された重病患者には自決用に青酸カリが配布されたそうです。
6月以降、洞内は近隣避難民と美田部隊監視兵、負傷兵などが同居し
日に日に亡くなっていく負傷兵、監視兵と避難民とのトラブル
米軍による馬乗り攻撃など、数々の悲惨な出来事がありました。
終戦後、8月22日、大部分の住民や日本兵は壕を出るのですが
一部の日本兵や住民は9月中旬まで籠城していたそうです
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